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選書・叢書
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音楽の本/美術の本/デザイン書籍/絵本・児童書/新書/文芸その他 |
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神はなぜ生まれたか:オドン・ヴァレ(著)
なまじ神などというものを発明したばっかりに、これまで人間はどれほど無駄な血を流してきたのだろう。そう考えるのは不信心ものだけだろうか。そもそも「神を発明」と言っただけで原理主義者から糾弾されそうだ。
この「神の再発見」シリーズは人間と宗教の長い歴史を振り返りながら、現代における宗教の意味や役割を捉え直そうというもの。時間的にも空間的にも広い範囲を扱うため総花的になりがちだが、個々の宗教を詳しく紹介しようとするものではないので(ページ数も140しかない)、詳細を知りたい人には向かない。この第1巻もアニミズム全般を、共通点を抽出しながら幅広く検証している。
宗教は自然への畏敬や死への恐れから誕生した。考古学的発見が物語る宗教の誕生を軸に、本書は原始宗教のありようをさまざまな視点から紹介していく。生命力の神秘化、生け贄の儀礼、動植物の神格化など。アニミズムは過去のものでも未開社会(この言葉は差別意識の産物!)のものでもなく、キリスト教など現代の宗教にもなんらかのかたちで受け継がれている。
著者はアニミズムを人間の宗教観の根幹のひとつと捉えているようだ。イエスの「復活」にしても原始宗教の「自然の精霊の死と復活」を借用している。聖体拝領も原始的宗教観を背後に持っている。根っこのところの現代化、合理化はなされていない。
とはいえ世界宗教と呼ばれる強大な宗教の伝播が素朴なアニミズムを駆逐しているのが実情だろう。自然を畏れ敬う宗教心の衰退が伝統社会にどのような影響を及ぼすのか気がかりだ。アニミズムは迷信であり世界宗教はそうではないとする考え方に与しない著者の姿勢には共感を覚える。
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〈「神の再発見」双書〉
神はなぜ生まれたか
<目次>
・死への恐れと宗教の始まり
・いのちの神秘
・なぜいけにえを捧げるのか
・神になった動物たち
・自然の中の聖なる力
アニミズムに光を当てる
日本の自然崇拝、西洋のアニミズム
今に生きるアニミズム
アボリジニの教え
不朽の名著「金枝篇」を図版で読む
図説
金枝篇
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一神教の誕生:オドン・ヴァレ(著)
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教はルーツが同じで、いずれも世界にも稀な一神教である。ユダヤ教の改革派(もしくは異端)としてキリスト教が生まれ、ユダヤ教とキリスト教を主要素に成立したのがイスラム教。「旧約聖書」は三つの宗教に共通する聖典になっている。まとめて『啓典の民』ともいうのはそのためだ。
それら親子兄弟ともいえる宗教同士がなぜ仲が悪いかという問題には、本書は深入りしていない。基本的な相違点はちゃんと書いてあるので理解の助けにはなる。一神教の誕生とその伝播の経過をたどることに主眼が置かれているため、三つの宗教の関係がよくわからないという人には便利だろう。それぞれの宗教がどのような変遷ののちに現在のような姿になったのかも手際よく紹介されている。
各章のおわりにある「資料篇」が面白い。たとえば「旧約聖書」について。「旧約」が影響を受けたエジプトやメソポタミアの宗教書の一節が紹介されており、その記述が驚くほど似ているのだ。「ノアの方舟」で知られる大洪水の話も古代オリエントにすでにあったもの。この話は一方で叙事詩『ギルガメシュ』に採り入れられ、一方で「聖書」に採用されて啓典の民の神の話となった。
著者はキリスト教文化圏の人物だが、キリスト教をひいきする姿勢が見られない。むしろその狭量さを批判するような意見がちらちら混じる。そういう学者っぽくない書きっぷりがエッセイを読んでいるような気がする要因だろう。また常に現代につながる視点で書かれているため、読み手は自分たちを取り巻く宗教的状況を思いながら読み進むことになる。
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〈「神の再発見」双書〉
一神教の誕生
<目次>
・一神教の誕生
・ヤハウェとイスラエル人の「歴史」
・イエス・キリストの登場
・世界宗教への道
・最後の預言者マホメット
一神教のジレンマについても
触れた同じタイトルの本がある
一神教の誕生
ユダヤ教の成立については
ユダヤ教の誕生
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古代インドの神:オドン・ヴァレ(著)
バラモン教、原始仏教、ジャイナ教、ヒンドゥー教
上記の一神教を含め、主要な宗教はほとんどすべてアジアで誕生している。インドもまた宗教の宝庫だった。いや、現在はさらに多様性を増していると言えるかも知れない。ゾロアスター教は消滅寸前らしいが、表記の4宗教のほかにアニミズム、シク教があり、イスラームやキリスト教が勢力を拡大している。インドは今も宗教の坩堝なのである。
アーリア人侵入以前の宗教についてはほとんど判っていない。「史書なき国」と言われるように、文字による記述が遺されていないからだ。確認できる範囲での最も古い宗教を便宜上バラモン教と呼ぶ。ご存知のようにカースト制の最上位に位置する僧階級がバラモンである。アーリア人は先住民(ドラヴィダ人など)をダーサ(奴隷もしくは悪魔)と呼んで支配下に置いた。アーリアとは「貴族」を意味するという。
バラモン教はアーリア人による支配を正当化する宗教として発達した。人間が尊いか賤しいかは生まれで決まってしまう。それは神の意志によるもので変えることはできない。紀元前6世紀ごろ、それをくつがえそうとしたのが仏教とジャイナ教だった。ブッダとマハーヴィーラ(ジャイナ教創始者)は身分や性別を超えた解脱への道を示し、隷属に甘んじていた人々に希望を与えた。人間の幸不幸を左右するのは神ではなくみずからの行いである。神の権威は地におちた。バラモンの専横を快く思っていなかったクシャトリヤ(武人階級)もかれらに協力したため、仏教とジャイナ教は社会の枠組みを変えかねないほどに発展した。
仏教はその後世界宗教への道を歩むが、ジャイナ教はインド国内に留まった。一般に戒律が厳しすぎたためと考えられている。事実「空衣派」の僧は常に裸形であり、在俗信者も厳しい禁欲生活を強いられるから広まりにくかっただろう。
バラモンたちは巻き返しを図った。おもに仏教の手法を採り入れ、わかりやすい宗教への脱皮を成功させた。ヒンドゥー教の誕生である。目に見える神を崇拝させるため多くの偶像を作り、欲望を肯定し、神々の存在を神秘化することも忘れなかった。男根信仰というアニミズムまで復活させた。哲学性を希薄にすることで民衆の信仰を取り戻したバラモンたちはカースト制(神による秩序)を厳格にし、支配体制を固めていった。現在インド人口の大半がヒンドゥー教徒であり、他宗教の信徒もその社会制度の中に組み込まれている。
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〈「神の再発見」双書〉
古代インドの神
<目次>
・バラモン教
・輪廻転生の思想
・仏教とジャイナ教
・ヒンドゥー教の成立
・ヨーガとタントラ
入門にはこちらも
はじめてのインド哲学
「ヴェーダ」を理解するために
ウパニシャッド
勇気と余裕のある方に?
マハーバーラタ
仏教誕生のころ
ブッダが考えたこと
参考までに
君あり、故に我あり
あるヨギの自叙伝
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中国と日本の神:オドン・ヴァレ(著)
仏教、道教、儒教、神道
第4巻まで来て、ヴァレの限界が明らかになってきた。ヨーロッパ人が理解する東アジアの心性とはこんなものなのだろうか。
儒教の章にこうある。儒教では「自分が望まないことを他人にしてはならない」と説く。これをイエスが弟子に命じたという「あなたが人にしてもらいたいと思うことはなんでも人にしなさい」と同列においているのだ。儒教は礼儀を教えているのであり、おせっかいを勧めているのではない。価値観の押しつけを正当化するイエスの言葉とは相容れないものだ。
最後の章に武術が採り上げられている。精神性の追求という点で宗教に共通するものがあるわけで、視点は面白い。しかし違和感が…。
話題が身近なためか目新しい記述はほとんどない。むしろヨーロッパ人が記述するとこういうことになるのか、という彼我の違いが興味深いといえる。
それはさておき、このシリーズは写真が美しい。表紙だけ並べたときこの巻の観音菩薩が一番素敵に見えるのは、わたしが日本人だからか。中面もオールカラーで珍しい写真が多く含まれ、見飽きない。
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〈「神の再発見」双書〉
中国と日本の神
<目次>
・仏教の三代宗派
・不死への道―道教
・官僚制度のモデル―儒教
・自然への信仰―神道
・武術と宗教
踏み込んで知るには
アジア宗教への序章
アジアの霊魂観
仏教と儒教―どう違うか50のQ&A
道教の神々
神道の逆襲
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屍鬼二十五話―インド伝奇集:ソーマデーヴァ(著)
古代インド。知勇兼備の王のもとを毎日訪れる修行僧があった。僧は謁見の間で王を拝し、必ず果実を一つ置いていった。そんな日が十年続いた。ある日王は、果実の中に高価な宝石が入っていることに気づく。なぜあの僧は毎日宝石を届け続けるのか。
わけを聴かれた修行僧は答える。わたしの呪術を成就させるためには一人の勇者の手助けが必要なのだと。恩義を感じたトリヴィクラマセーナは協力を約束する。しかし修行僧の求める手助けとは、なんと恐ろしいものだったことか。
王は月のない夜の闇の中、約束を果たすために、墓地の木に吊るされた死骸を僧のもとへ運ばなければならないのだった。死骸には屍鬼(しき)がとり憑いていた。この姿の見えない屍鬼は王を邪魔するため、次々物語を聞かせては質問をしかける。内容は唐代伝奇集のような、あるいはアラビアンナイトのような、奇想縦横荒唐無稽幻想無限の物語。話し終わると屍鬼はいちいち王に訊ねるのだ。今の話の中で最も勇気のあるものは誰か、罪を負うべきは誰か、などと。
王はすべての問いに答えていくが、『屍鬼二十五話』の面白さは屍鬼の語るさまざまな物語そのものにある。そして物語を続けるうちに王の人格に魅せられた屍鬼は、あの修行僧の正体を明かし、忠告を与えるのだった。あの男の目的とは…。
恋人たちの謎かけ、甦る死者、竜宮の美女、性転換の秘薬、天翔るガルーダ…、さながら南アジア伝奇物語集成。なかには仏教の菩薩行を思わせる捨身物語も混じるが、仏教説話になることはない。背景にある世界観はやはりヒンドゥー。現世的願望の成就を夢見る内容が多いように感じる。願いを遂げるために暴走する主人公たち。かれらと神々とのかかわりの中で、思いもかけない奇譚が語られていく。
物語が入れ子構造になった、いわゆる「枠物語」のひとつ。下記『鸚鵡七十話』とならぶインドの代表的説話文学とされている。
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〈東洋文庫〉
屍鬼二十五話―インド伝奇集
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鸚鵡七十話―インド風流譚:田中於菟弥(訳)
上記『屍鬼二十五話』と同じインドの代表的「枠物語」。物語の中で物語が語られていく。こちらの語り手は鸚鵡(オウム)だが、オウムの語る物語の中にさらに少女バーラサラスヴァティーの語る物語が入り、その中に蛇の語る物語があって四重構造になっている部分もある。12世紀頃に成立したと考えられ、作者はシュカサブタティに擬せられている。
富裕な商人マダナセーナは商用で留守にする間、美しい若妻プラバーヴァティーの世話をするよう鸚鵡に頼んでおく。若妻は王子に見初められたことから浮気心が芽生え、夜になるたび外出しようとする。鸚鵡はかの女に短い物語を聴かせてその解決方法を答えさせる。しかしかの女は難問に答えることができず、考えているうちに夜が明けてしまうのだった。これが毎夜毎夜繰り返される。結局若妻は外出できないまま物語は終わり、鸚鵡はつとめを果たして飛び去っていく。
内容は恋の物語、それも不貞な女の話が多い。主人公は必ず窮地に陥り、知恵や機転で切り抜けていく。あるいは王が大岡裁きを行ったり、ずるがしこい人物が策略で主人公の欲望を遂げさせたりする。現代人の感覚からすればずいぶん不道徳な内容も頻出する。
一夜につき一話という点で『アラビアンナイト』を、さまざまな恋模様を描く点で『デカメロン』を思わす。当作品はそれらに影響を与えたと考えられており、事実『デカメロン』にはそっくりな挿話がある。
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〈東洋文庫〉
鸚鵡七十話―インド風流譚
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選書・叢書 |
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音楽の本/美術の本/デザイン書籍/絵本・児童書/新書/文芸その他 |
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